努力すれば金は儲かる?

残念ながら、「報われない努力」はあまりにも多いものです。みんな頑張っています。怠ける人は怠けるものですし、そのような人は自然と淘汰されるものなのですが、ただ「努力」したからといって、すべてが報われるわけではないのです。

それは仕方のないことであり、「現実」です。「頑張る」ということは「当たり前」であり、当たり前ということは「普通」ということです。世の中で働き、何か生み出したり、サービスを提供したり、私たちが目にするありとあらゆることは「最善の取り組み」が重ねられて出来上がっているものなのです。ですから、同じフィールド、つまり「この社会」で働く私たちもその「最善」を重ねなければついていけなくなるのです。

同じ値段であれば、より「良いもの」が欲しいものです。同じ価格で、片方は明らかに手抜きで作られたもの、片方は明らかに丁寧に仕上げられたものであるのならば、それは丁寧なものの方が良いに決まっています。それは正常な価値観です。だからさまざまな商品はその価格で実現可能なすべてのことを尽くし、「良い物」として選んでもらえるように日々ブラッシュアップしているのです。

さまざまな人がさまざまな仕事に関わっているものです。ある時は商品の提供側、ある時は利用者と、社会に参画すると自分がお客になったり、逆にお客の相手をしたりと、さまざまな状況に直面します。それらの積み重なりが社会だからです。

その中で「最善」が「当たり前」である以上、私たちは「手を抜く」ということが許されなくなってしまったのです。私たちは常にフルパフォーマンスを発揮する必要があります。そしてそれが「価格」に反映されることも難しくなってしまったのです。それは同じ時間の労働を低賃金でこなせる他国からの輸入が盛んだからです。製造に人の手がかかるのであれば、人がかけた「時間」はコストです。コストは原価になり、原価から売価が決まります。同じ時間、同じクオリティ、ただ「低コスト」ということであれば、そこで同じ価値を持つものがより安く作れてしまうのです。その時点で、私たちがいくら努力しても太刀打ちできなくなります。

私たちに必要なことは、「努力」ではないのかもしれません。お金を稼ぐということに特化して考えれば、「今無いもの」を考えることが最善なのです。他国の安い製品が大量に入ってきてしまう以上、どれだけ最善を尽くしても勝てません。だから「努力」の方向を変えるしかないのではないでしょうか。

同じ時間を使うにしても、不毛なことに費やすよりも、新しい可能性を探った方が有意義です。もちろん、人にはそれぞれ「役割」があり、そのような広い視野で物事を考える職責ではないのかもしれません。ただ、「なぜこんなに頑張っているのに稼げないのか」という点に対するアンサーは、「不毛だから」ということがほとんどなのです。それは理不尽でもあり、社会の摂理でもあります。明日は今日よりも良くなるのか、と考えると、気持ちが落ち込んでしまうことになるかもしれません。ただ、私たちは自分の境遇を自分で変えることができます。自分の手で、新しい状況を作り出すことができるのです。その境遇が「不毛である」と感じたら、そこから脱して新しくがんばれるようなものを探す事ができるのです。

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